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放射線腫瘍医のレジェンド 
Dr. Ritsuko Komaki
小牧律子先生へのインタビュー

 

Dr. Ritsuko Komaki  小牧律子先生の記事と動画(日本政府公式サイト)

 

日本政府が海外の人々に向けて「世界で活躍する日本人女性」として紹介した記事と動画です。

 

https://www.japan.go.jp/tomodachi/2014/womenomics_edition_2014/japanese_women_contributing_worldwide.html

 

 

 

 

 

 

 

2025年6月

アメリカでレジェンドと呼ばれる日本人の女性放射線腫瘍医がいます。私の叔母にあたる小牧律子という女性です。

 

1967年に生まれた幼い頃の私は、当時、医学部の学生だった律子叔母さん(私は未だにそう呼んでいます)に手を引かれて

広島の街を散歩に連れて行って貰ったり、公園で遊んで貰ったりと

律子叔母さんと過ごした微かな記憶が残っています。

 

最近、律子叔母さんに聞いてみたところ

私の母(律子叔母さんの姉)は当時はまだ珍しかった職業夫人だっため、私が広島市立市民病院で産まれた後、6ヶ月間は祖母(律子叔母さんの母)と律子叔母さんの2人によって育てられていたことが分かりました。

 

現在、律子叔母さんは世界的な放射線腫瘍医となり、国内外の著名な医師たちと仕事をしています。しかし、一旦仕事を離れれば

昔と変わらない気さくでのんびりした性格で、何十年経っても、あの頃の律子叔母さんのままです。

 

このインタビューは

一人の日本人女性医師 小牧律子先生の人生を振り返ることで、原爆の恐ろしさ、幼い頃の友人の死、戦後の日本やアメリカでの生活、そこで女性が医師として生きていく中での、様々な苦労の連続と紆余曲折。そして、その先に少しずつ開けていった希望の光。

昭和、平成、令和を生き抜いた逞しい一人の日本人女性の物語になっています。

 

インタビューを翻訳している際には

戦後の日本の様々な浮き沈みを思い出しながら、自分自身が小牧律子先生の人生を追体験しているような不思議な気持ちになりました。

このインタビューを通して、日本ではあまり知られていない放射線腫瘍医という存在を知って頂けますと幸いです。

 

 

 

2025年4月23日

広島市立広島市民病院の放射線腫瘍医である松浦寛司先生のご尽力により、小牧律子先生が広島テレビの取材を受けた動画です。

 

 

 

 

小牧律子先生がアメリカに渡って50年以上の月日が経ちました。

彼女の放射線腫瘍医としての研究分野、臨床分野における功績は素晴らしいものです。

 

しかし彼女の功績はそれだけではありません。

この40年間に、数多の優秀な日本の医師からの申し出を受け入れ

彼らを日本からアメリカ、テキサス州にある

テキサス大学MDアンダーソン・がんセンターに招き、日本人研究者のサポートを続けてきました。

その受け入れは2025年現在も行われています。

 

かつてMDアンダーソン・がんセンターで学んだ優秀な日本人の医師たちは帰国後、世界レベルの放射線腫瘍医として国内外で活躍しています。

 

 

 

小牧律子先生のMDアンダーソンがんセンター内でのインタビュー動画

小牧律子先生が米国CBSのニュース番組でインタビュー取材を受ける動画

 

 

 

これから紹介するのは

2018年に行われた小牧律子先生へのインタビューです。

これを読んで頂ければ、小牧律子先生の人生の大きな流れを理解して頂けると思います。

私が翻訳をして、更に小牧律子先生から直接聞き取りした内容を盛り込んで、一部文章を加筆して完成させました。

インタビューは前半と後半とに分かれています。

 

前半部分は、戦後日本からアメリカに渡り紆余曲折があった中で、専門である肺癌治療を学ぶきっかけとなった出来事でのシーンで終わります。

 

後半部分は、主に放射線腫瘍医になり、陽子線治療機器をMDアンダーソンがんセンター内に導入するために奔走するシーン

及び、放射線腫瘍治療の専門的な内容になります。

 

小牧律子先生は日本に1人でも多くの放射線腫瘍医が誕生して欲しいと願っています。

 

「アメリカではがん患者の70~75%が放射線治療を受けているのに対し、日本では根治的または緩和的に放射線治療を受けているのは30%です。これは誤りです。

日本にはもっと放射線腫瘍医が必要です。」

これは最近、小牧律子先生御本人から直接いただいた言葉です。

 

特に広島や長崎で原爆被害にあわれた方々、日本中のがん患者さん、日本中の医学部を目指す受験生の皆さん、日本中の医学部の学生の皆さん、日本中の研修医の皆さんが見て

日本のがん治療がより良い方向に向かうのを願うばかりです。

 

尚、このインタビューを掲載する許可は小牧律子先生御本人に頂いています。

 

 

 

インタビューに入る前に少し用語の解説をします。

 

1.放射線腫瘍医とは

がん治療の3本柱(手術、薬物療法、放射線療法)の1つとして、放射線腫瘍医は、腫瘍に放射線を照射して治療します。 

手術は外科医、薬物療法は腫瘍内科医、放射線療法は放射線腫瘍医が行います。

放射線腫瘍医は、患者の状態やがんの種類、位置、大きさに基づいて最適な治療計画を立て、治療の適応を判断します。

日本では、今後のがん治療で重要な役割を果たすと言われている分野です。

 

 

2.テキサス大学MDアンダーソン・がんセンターとは

テキサス大学MDアンダーソンがんセンター(テキサスだいがくMDアンダーソンがんセンターThe University of Texas MD Anderson Cancer Center) は、テキサス州ヒューストンテキサス医療センター内にある、の治療、研究、教育、予防を専門とする大規模がんセンターです。

設立は約60周年を迎え、優秀なスタッフを育て、優れたプログラムを活用し、癌研究において世界の中心となるべく努力しています。そのミッションは癌を撲滅することです。センターは、3つの精神、「思いやり」、「誠実」、「発見」の理念に基づき16,000人以上のスタッフ及び1,600人以上のボランティアが癌を克服するために働いています。

 

 

3.ASTROとは

米国放射線腫瘍学会の通称です。

 

 

4.ASTROフェロー(FASTRO)とは

ASTROフェロー(FASTRO)は、ASTRO会員資格、ASTROへの貢献、放射線腫瘍学分野への貢献に基づいて授与される。通常、ASTROの会員歴が15年は必要だが、会員歴が15年未満であっても、ASTROに多大な貢献をした個人は、フェローシップの対象として考慮されることがある。さらに、フェローになるための4つの道筋(リーダーシップ/奉仕、研究、患者ケア、教育)のいずれかにおいて、称賛に値する貢献をしていることが要求される。

 

ASTROフェロー・プログラムは2006年に発足した。11月5日(日)、フィラデルフィアで開催された2006年年次総会において、ASTROフェローの第1期生が入会式を行った。2022年10月25日現在、421名のASTRO会員がフェロー・プログラムに入会している。

 

2022年10月25日、テキサス州サンアントニオで開催されたASTRO第64回年次総会において、2022年度ASTROフェローの入会式が行われた。

 

ソース ASTROフェローの定義

https://www.astro.org/About-ASTRO/Recognition-Awards/Fellow

 

 

 

インタビュー前半

 

2018年1月23日

ASTROの公式サイトにおいて

クリストファー・ローズ医学博士 FASTRO とアルジュン・サッガル医学博士による

小牧律子医学博士 FASTROへのインタビューが行われました。

 

 

 

クリストファー・ローズ 医学博士 FASTRO :では、どこで生まれ、どこで育ったのか、経歴について教えてください。

 

 

小牧律子医学博士 FASTRO:私は大阪郊外の尼崎で生まれました。私の両親は広島出身ですが、京都大学を卒業した父は大阪の阪神電鉄で働いていました。  尼崎は広島から200マイルほど離れています。  広島に原爆が投下された後、私は広島市で育ちました。  両親は、原爆で生き残った親戚と暮らすために、出身地の広島に戻ることを決めました。だから私は広島で育ちました。

 

 

 クリストファー・ローズ 医学博士 FASTRO :『レッド・ジャーナル』誌に掲載された、あなたの思い出を綴った記事には、とても重要なことが書かれていました。

 

 

小牧律子医学博士 FASTRO:はい。  私が小学4年生の時、私たち家族は広島に戻り、父が広島銀行で働くことになった際、私は被爆者の方々とお会いしました。  その中にはケロイドがある人もいました。  私の祖母(母方の母)は広島にいました。  自宅は倒壊し、全身被曝しました。  骨髄抑制で鼻血が出たり、消化器毒性でひどい下痢をしたり、急性全身副作用がありました。  しかし、彼女は生き延びました。そして半年ほど街から離れましたが、その後は広島に戻って来て、亡くなるまで広島で暮らしました。しかし、驚くべきことに、彼女は悪性腫瘍を患うこともなく、骨粗しょう症とアルツハイマー病以外には何も発症しませんでした。

 

私は祖母や家族と一緒に広島に住むようになり、私の友人である佐々木貞子さんと同じ幟町小学校へ通うようになりました。彼女と私はリレーで競い合っていました。しかし、彼女は息切れがひどくなり、その後、急性骨髄性白血病であることがわかりました。

佐々木貞子さんの家は広島の郊外にあったのですが、彼女は2歳の時に広島市己斐郊外で原爆による放射線被害を受けました。そして、彼女は10歳の時、急性骨髄性白血病を発症してしまいました。その後、赤十字病院に入院して、そこで千羽鶴を折ろうとしていましたが、その1年後に白血病で亡くなりました。

 

日本では折り鶴を千羽折れば、病気から回復して幸せに暮らせると言いますよね。  しかし、彼女が折った折り鶴は、薬を飲んだ後、薬が包まれていたワックスペーパーで折られた440羽ほどでした。その折り鶴は現在、広島平和記念館に展示されています。しかし、千羽鶴を折ることはできず、彼女は亡くなりました。そして、中学校への進学届を出していましたが、その中学校には行けませんでした。

 

そして、中学校に進学すると、私は中学校の生徒会長になりました。  そこで、佐々木禎子さんの2歳年上のお兄さんや同級生と一緒に、禎子さんや原爆で亡くなった子どもたちのために慰霊碑を建てることにしました。

 

私の父は、原爆投下の翌日、生死不明の親族を捜すために広島に行きました。  そして高線量の放射線を浴びました。それは黒い雨と呼ばれていました。父はタバコを吸っていましたが、膀胱がんで亡くなりました。  肺がんを心配していたのですが、膀胱がんで亡くなりました。  膀胱がんの原因は、その両方が重なったのだと思います。  しかし、驚くべきことに、全身放射線による急性放射線障害を負った祖母は、悪性腫瘍になることなく生き延びました。祖母はひどい骨粗しょう症になり、最終的には72歳でアルツハイマーで亡くなりました。

 

家がない人たちばかりでした。ほとんど掘っ立て小屋のような小さな家に住んでいました。祖母は大きな大きな武家屋敷を持っていましたが、原爆で全壊してしまいました。  その後、祖母は広島の郊外にとても小さな家を与えられて、そこに私たちは大阪から引っ越してきたんです。でも、祖母は私たちがその小さな家に住むのを嫌がりました。でも、他に場所もありませんでした。だから、私たちは祖母と一緒に広島で暮らしました。

 

私の叔母(母の妹)は、祖母と一緒に暮らしていたのですが、原爆が投下された時、19歳でした。  彼女は広島大学で秘書として働いていました。  彼女は生き延びましたが、広島大学から家に戻ったときの記憶では、焼け野原になって亡くなった子どもたちや、水を求めている人たちを見ました。その悪夢を、彼女は決して忘れることはありませんでした。彼女は結婚や妊娠をいつも恐れていました。なぜなら、原爆に被爆した人たちが妊娠したらどうなるのか、誰も教えてくれなかったからです。  小頭症の赤ちゃんがいるとか、そういう話を小耳に挟んだこともありました。だから、彼女は45歳になるまで結婚もしなかったし、子供も産まなかったのです。でも、薬の過剰摂取で亡くなりました。眠るために精神安定剤を飲まなければならなかったからです。

 

これらはすべて、身体的な問題だけでなく、精神的な問題でもあるのですが、その世代にはまったく説明されませんでした。  私が学校にいた時でさえ、教師は何も言わなかったのです。私たちは、自分たちが第二次世界大戦を始めたから、その第二次世界大戦を終わらせるためにはこうしなければならないんだ、というようなことを聞かされていました。でも、それは盲目的なものでした。貞子さんが亡くなったとき、私は白血病の研究者になるか、白血病や悪性腫瘍を治療する医者になろうと決心しました。  だから腫瘍内科医になったんです。でも、最初は血液腫瘍学をやり始めました。

 

私が広島大学の医学部に進学したとき、いや、その前に、私たちは平和記念公園に貞子さんの記念像を作ることに決めました。そのために募金活動をすることにして、2年以内に資金を集めました。  また、貞子さんのドキュメンタリー映画『千羽鶴』も協力して制作し、資金を集めました。  あの原爆像は、原爆の子の像と呼ばれています。  広島の平和記念公園にあります。  貞子さんはてっぺんに立っています。  高さは3メートルくらいで、てっぺんでは貞子さんが折り紙の鶴のモニュメントを掲げています。これは平和のための、子供たちのための記念像です。

 

その時は、この像がこんなに有名な像になるなんて思ってもみませんでした。  でも今でも、11歳か12歳くらいの子どもたちが折り紙で鶴を折っています。一本の紐に千羽の折り鶴が束ねられ、サンフランシスコ、ボストン、ヒューストンなどから送られてくるんです。世界中から届いた折り鶴を見て、本当に感動しました。

この原爆の子の像を作ったとき、私は広島や長崎に投下された原爆が、他の場所に投下されないようにしなければならないという思いで活動したのです。

 

いずれにせよ、そうして私は腫瘍内科医になることを決めたのです。  広島大学医学部に進学しました。2年間の予科で理学士を取得し、それから医学部に進みました。  私の興味は被爆者を調べることだったので、夏休みにABCCでボランティアをしました。  原爆傷害調査委員会(Atomic Bomb Casualty Commission)と呼ばれていましたが、今は放射線影響研究所(放影研)と呼ばれています。アメリカと日本政府は、この財団の支援を50:50で分担することを決めました。

 

もともとABCCが発足した1946年当時は、原爆被爆者や染色体異常者から得た驚くべき資料があるという点で、100%アメリカの支援を受けていました。  人体への影響に関心を持つ人々によって、それらはすべて文書化されています。  甲状腺機能障害や悪性腫瘍、血液学的悪性腫瘍、甲状腺がん、乳がん、胃がん、後には多発性骨髄腫や大腸がんも調べました。  みんな研究されました。

 

夏には、被爆者全員の血圧や血球数などを調べました。  私が1969年に広島大学医学部を卒業したとき、残念ながら学生運動で学生と職員がストライキを行ったため、大学病院はすべて閉鎖されました。  医学生、研修医、レジデントは全員、大学病院から立ち去らなければなりませんでした。  私たちは無給で働かなければなりませんでした。  また、学生側は医学教育制度の改善も要求しました。私たちは全国規模でストライキを強いられたのです。

 

私は放影研で1年間働き、その際、ウィスコンシン州ミルウォーキーでジェームズ・E・ユーカー博士の友人だったウォルター・ラッセル博士と出会いました。その出会いは私がアメリカに行くきっかけとなったのです。

私は白血病の専門医を志して1971年に渡米してウィスコンシン医科大学腫瘍内科の研修医となりました。

それからミルウォーキーの退役軍人病院でフェローシップを始めました。さらにミルウォーキーのセントメアリーズ病院で一般研修を受けました。それから放射線腫瘍学に進むことを決意しました。

 

当時、退役軍人病院とセントメアリーズ病院の血液腫瘍科にいた患者の中には、化学療法では治癒が期待できない精巣がんの患者、ホジキンリンパ腫、早期リンパ腫、急性リンパ性白血病の患者が多数いたからです。私は非常に落胆しました。しかし、喉頭がんの患者が放射線治療を受け、治癒するのを見て、これは非常に興味深いことだと思いました。そして広島から来た私は、放射線腫瘍学にさらに興味を持つようになりました。

 

セント・メアリー病院で一般研修をしていたとき、内科と放射線腫瘍学の専門医資格を持つアンソニー・ゲニンガー医師に出会いました。彼は外科医や腫瘍内科医から尊敬されていました。  彼はがんについて驚くほどの知識を持っていました。  それで私は放射線腫瘍学に興味を持つようになりました。  その後、ジム・コックスがウィスコンシン医科大学腫瘍内科にやってきて、診断放射線学から分離した放射線腫瘍学の最初の主任教授になりました。  私は彼の下で学んだ最初の研修医でした。  そこで私は放射線腫瘍医になったのです。

 

 

アルジュン・サガール医学博士:基本的に、あなたは素晴らしい経験をされ、また非常に悲劇的な経験もされ、それが最終的に放射線腫瘍医になるための教育を受けることにつながったのですね。

 

 

小牧律子医学博士 FASTRO:そうですね。

 

 

アルジュン・サガール医学博士:それで、ちょっと掘り下げてみたいと思います。  あなたは医学部を卒業し、その過程で教育を受けました。  キャリアのどの時点で、つまり就職した時点で、その情熱を強く抱いたのですか?  主に肺がん研究ですよね?

 

 

小牧律子医学博士 FASTRO:その通りです。  ジム・コックス、フランク・ウィルソン、ドン・アイザート、ロジャー・バイハート、ラリー・クンらの指導の下でレジデンシー・プログラムを修了した頃、私は婦人科に強い関心を持っていました。

その後、MDアンダーソンでフェローシップを受けました。  フレッチャー先生のもとで、婦人科のすべてを学びたかったのです。  MDアンダーソンがんセンターでは、とても興味深い時間を過ごしました。  エレノア・モンタギュー、ノラ・タプリー、デイビッド・ハッセーなど、信じられないような人たち、リリアン・フラーやそこにいたすべての人たちに出会いました。  私はフレッチャー先生から多くのことを学びました。先生は、婦人科の合同クリニックで、なぜステージIIIBの子宮頸がん患者に一度に大量の放射線治療を行うのかと質問した私に、患者を診察させてくださったのです。私が診察した患者さんは、両側子宮傍リンパ節転移(凍結骨盤)でした。フレッチャー先生は私に、この患者を治せるかどうか尋ねました。私は、この患者を治癒させることは稀だが、骨盤内への高線量放射線治療によって晩期障害が現れる患者もいると伝えました。彼は、両側子宮傍リンパ節転移のある患者には1日2回の治療を開始することを決定しました。誰も彼に異論を唱えることはできませんでした。彼はすべてを決定しました。この患者をどの装置で治療すべきか、どの線量で治療すべきか、そしてすべての治療領域を決めました。ロドニー・ウィザーズだけが、フレッチャー医師に「なぜ炎症性乳がんなのに1日1回ではなく2回治療するのですか?」と質問できる唯一の人物だったと思います。しかし、それ以外は、非常に興味深い時間でした。

 

レスター・ピータースは、確かデイビッド・ハッセーの下で研究員をしていました。  彼らは婦人科、頭頸部、前立腺、そして肺尖部腫瘍のような一部の肺がん患者を中性子で治療していました。  私はカレッジステーションのA&Mにある中性子施設にも行きました。  MDアンダーソンがんセンターで傑出していたのはエレノア・モンタギューです。  彼女は放射線治療で乳がんを治療していました。  彼女が60歳になったとき、私は引退すると言いました。  そして次の瞬間、ああ、引退できてよかった、もう少し早く引退すればよかった、と言いました。彼女は本当に素晴らしい人でした。

 

他にもMDアンダーソンで素晴らしい人たちと知り合いました。  MDアンダーソンを去った人たちもいましたが、ギルバート・フレッチャーやノラ・タプリー、レスター・ピータースといった人たちとの出会いは、私にとって本当に素晴らしい経験でした。  MDアンダーソンでは素晴らしい時間を過ごすことができ、多くのことを学ぶことができました。

 

その後、1983年にウィスコンシン医科大学腫瘍内科に戻り、そこで放射線腫瘍学准教授になりました。  主に婦人科系の悪性腫瘍の患者さんを診ていました。  しかし、ジム・コックスがいつも留守だったので、私が肺がんの担当をしなければなりませんでした。

ジムは頭頸部疾患の患者さんと小児科の患者さん、特にリンパ腫の患者さんをラリー・クンに任せていました。そのため、放射線腫瘍医の誰もが治療したがらない肺がんを、ジムが担当することになってしまいました。ところが、ジムはいつも留守でした。彼は放射線腫瘍医協会(RTOG)で非常に忙しく、私が彼の代わりに治療する必要がありました。

私は彼の代わりをしなければなりませんでしたが、私は婦人科だけでなく肺がんにも強い関心を持つようになりました。

 

 

 

 

 

インタビュー後半

 

1980年にジム・コックスと結婚しました。

その後、ジム・コックスは1985年にニューヨークのコロンビア大学 プレスビテリアン医療センターの放射線腫瘍学科主任・放射線腫瘍学部門の部長職に就任しました。この新しい部門は、それ以前の部門が設立されてから40年ぶりに創設されたものでした。私自身も放射線腫瘍学科臨床主任・准教授として招かれました。

そこで私は肺がん、婦人科、乳がんを担当しました。 またハーゲンセン先生の教え子で、とても有名な乳腺外科医に出会いました。

 

コロンビア大学 プレスビテリアン医療センターでは

早期乳がんに対しては、温存手術よりも根治的乳房切除術や修正乳房切除術をやりたがっていました。ステージ1の患者でさえ、「温存手術なんて何を言っているんだ。限定手術の後に放射線治療をすれば、反対側や同じ側の乳房に乳がんが増えるでしょう」と言われました。  私は、あなたが乳がん治療に関して完全に遅れている事が信じられないと言いました。私はヨーロッパ、ボストン、カリフォルニアで発表された多くの論文を引用しました。私は彼らと一緒に臨床研究をしようとしたのですが、腫瘍登録にはあまり情報がなく、ここではそういった前向きな研究や共同研究はできないと言いました。

 

その後1988年、ジム・コックスがMDアンダーソンの患者ケア担当副主任兼医長に任命されました。そしてレスター・ピーターズから、MDアンダーソンがんセンターで肺がんを担当するよう私に依頼がありました。彼は肺移植を待っていましたが、結局亡くなりました。

 

そこで私は1988年からMDアンダーソンの胸部放射線腫瘍科の部門長兼准教授になりました。  その後1994年に教授に就任しました。

 

最初にやめなければならなかったのは、胸部放射線治療(TRT)の分割コースでした。肺がん患者全員に3Gy×10回照射を行い、その後1ヶ月の休薬期間を設け、その後、患者が2回目のTRTコースに復帰できる場合は、再び3Gy×10回照射(週5日)の2回目のTRTコースを実施していました。私は、ステージIIIの非小細胞肺がん(NSCLC)に対する分割コースは、全生存率(OS)と生存率(LC)の点で連続TRTよりも劣ることを示すRTOG試験を引用しました。私は、限局期小細胞肺がんおよびステージIIIの非小細胞肺がんを対象とした前向きRTOG試験への参加を試みました。

 

当時胸部外科の主任だったクリフトン・マウンテン氏とは非常に緊密に仕事をしました。彼は私にステージIとステージIIの非小細胞肺がんの標本をすべて提供し、DNA指数、アポトーシス、S期、EGFR発現、そして脳転移やその他の転移を予測するための他の因子の分析を始めました。彼は私の研究のためにすべての標本を提供してくれたことにとても感謝しています。エル・ナガル博士とジェ・ロ博士も病理の詳細な検討を手伝ってくれました。その後、日本からポスドク研究員を迎え、すべての標本を分析し、臨床的に再発の有無、それがEGFR発現と関連しているかどうか、特に脳転移がEGFR発現と関連しているかどうかを調べました。MDアンダーソンで過ごしたのは、私にとって素晴らしい時間でした。

 

MDアンダーソンに赴任した当時は、ハンドブロックと2D放射線治療計画しかありませんでした。そこで私は、3Dコンフォーマル放射線治療と強度変調放射線治療(IMRT)をもっと導入する必要があると訴えました。いくつか困難もありましたが、最終的にはIMRTの導入が始まりました。レスター・ピータースがオーストラリアに帰国した後、ジム・コックスが放射線腫瘍学の主任兼部門長に就任しました。

 

私は幼少期に広島で被爆した経験から、二次悪性腫瘍を引き起こす可能性のある小児や若年成人患者への低線量放射線の散乱を減らすため、陽子線センターを作るよう彼に頼みました。低線量放射線を受けた人の白血病、甲状腺がん、乳がん、胃がん、膀胱がん、肺がん、多発性骨髄腫の発生率が有意に高かったのです。ジム・コックスはまず、我々には十分な資金がないと言いました。そこで彼は、50%を民間財団から、残りの50%をテキサス大学MDアンダーソンがんセンターから援助してもらうことにしたのです。私たちは2006年に陽子線センターで治療を開始し、今では7,000人以上の患者を治療しています。  陽子線センターは、私の夢が実現したものです。成長期の子どもたちに対する全身への低線量放射線の影響を抑え、二次悪性腫瘍のリスクを減らすことを目指したのです。 これは、広島で育った私の経験から生まれたものです。  白血病やガンを患う人たちをたくさん見てきました。私の母も胃がんで亡くなりました。  いとこも何人か白血病で亡くしています。彼らはとても若かったです。

 

でも、この陽子線センターは2006年に始まり、今では10年以上の経験があります。  より侵襲性の低い治療というのは、本当に、私の夢のようなものだと思いました。  放射線腫瘍医として、がん細胞を狙い撃ちしながらも、周囲の正常組織にダメージを与えない。  それが最も重要なことだと思います。

 

もうひとつ、ジム・コックスやRTOGでの私の恩師であるカレン・フーとの仕事についていつも思うのは、彼らは生物学を本当によくまとめているということです。  物理学だけでなくね。  放射線腫瘍医にとって、生物学、がん生物学を知り、物理学と組み合わせることは非常に重要なことなのです。  私たちはこれを治療比率の向上と呼んでいます。  つまり、がん細胞は殺すが、周囲の正常組織は殺さないということです。  それが私たちが学ばなければならないことだと思います。

 

そして、フォローアップによって患者さんから学ばなければなりません。  私たちはますます時間に追われるようになり、また、保険診療では特定の高度な技術や実験的な分子標的治療を使用することができません。  そうなると、私たちはあまり時間をかけられません。  患者さんをほとんど機械のように扱うしかない。  あなたはいろいろとおっしゃいましたね。  私たちはコンピューターからすべてを引き出すことができ、多くの時間を費やすことはありません。  患者さんから学ばなければならないのは、患者の声に耳を傾けることです。

 

 

クリストファー・ローズ医学博士 FASTRO :ダン・アイザートとジムとの最初の論文から始まり、現在に至るまで、肺がんにおけるあなたのキャリアは、放射線治療や放射線腫瘍学における肺がんのすべての変化を見てきたと思います。  特にMDアンダーソンでは、今まさに、原体照射法によるSBRT(原体照射法)での超大分割照射法、陽子線照射法、そしてオリゴメタスタティックがんに対する放射線治療の適用方法を学ぶ研究を主導されています。これらすべてが、肺がんグループであなたの指揮下で進められているのです。

 

ちょっと疑問に思うのですが、あなたが発表した受動的散乱陽子線の結果に関する論文を読みました。  これ以上良くなるとは思えず、がっかりしています。  ペンシルビームと同様、範囲外の生物学がよりよく理解されるようになった今、陽子や荷電粒子が肺がんに有望であることがようやくわかるというのが、あなたのお考えですか?  

 

 

小牧律子医学博士 FASTRO:はい。  とてもいい点を指摘してくれましたね。  私がダン・アイザート、ジム・コックス、ロジャー・バイハートとともにレジデンシー・プログラムを受けたとき、それはひどいものでした。  肺がんの予後はあまりに悪く、私たちは本当に、よし、何かしなければいけないと思いました。  肺がんの進行期でも、5年生存率は15パーセントと、本当にひどかったんです。  多くの人がまだ喫煙している。  私の担当医でさえ喫煙していました。  今でも覚えています。でも私は、よし、やってみようと言いました。

 

ジム・コックスとダン・アイザートは私にプロジェクトを与えてくれました。がんがどこで転移するのかを調べよう、と。腺がんのように、脳に転移するがんもあります。小細胞肺がんも脳に転移します。転移の部位が分かれば、何らかの予防策を講じることができるかもしれません。こうして、小細胞肺がんに対する予防的頭蓋照射が始まったのです。

 

しかし、私がウィスコンシン医科大学のレジデントだった頃、良い治療機器がないことが分かりました。私たちは、もっと良い治療を行うために、ウィスコンシン医科大学に高エネルギーの装置を導入してもらうよう、フレッチャー先生に頼まなければなりませんでした。

 

しかし、私が MD アンダーソンに着任した 1988 年当時、彼らはまだほぼ正方形または長方形の照射野を使用しており、私はこれらの技術は使用すべきではないと言いました。  『放射線肺炎と線維症』という本を書いた放射線診断医がいたのを覚えています。彼は、2 次元技術による正方形または長方形の照射野であったこの放射線が肺にどれほどひどい線維化を引き起こすかについて言及していました。私は、IMRT を実行すれば、これらの正方形または長方形の照射野は見えなくなりますと言いました。そこで、どうすればそれができるかを示すことにしました。そして、私たちは 3D コンフォーマル治療を開始しました。放射線治療の約 2 ヶ月後、肺には正方形または長方形の線維化変化はなく、彼は私が治療を行った部位を見つけることができませんでした。その後、夫のジェームス・D・コックスが放射線肺炎と線維症についての意見を述べるためにRTOG会議に出席するよう彼を招待したにもかかわらず、彼は引退することに決めました。

 

私たちは、正方形や長方形の線維性変化も、大きな選択的結節野も起こしません。その後、SBRTや陽子線治療をどんどん行うようになりました。CTやPETによる画像診断や内視鏡的気管支超音波検査(EBUS)により病理学的なリンパ節転移を定義し、選択的リンパ節照射を回避することで、腫瘍以外の治療野のマージンをよりタイトにするようになりました。  私たちは本当に懸命に働かなければならないと思います。  技術的には、もっと進歩しています。  2006年に始めたばかりのころと今では、ビームの配置や腫瘍の動き、マージンなど、どれだけ洗練されたものになっていることか。  ですから、私たちは多くのことを成し遂げてきました。  ただ、一夜にしてできるようになったわけではありません。  最終的には、IMPTやスキャニング中性子汚染などを利用できるようになり、最終的には毒性をあまり出さずに、よりターゲットを絞った治療ができるようになると思います。  物理的な標的だけでなく、EGFR遺伝子変異がある場合は、チロシンキナーゼ阻害剤を投与して縮小させることができることを学ばなければなりません。  メガメタスタシスや再発を起こした場合は、陽子線治療を行うことができます。

 

つまり、生物学的状態や遺伝子変異が何であるかによります。  手術や放射線治療、陽子線治療だけに飛びつく必要はない。  私たちは腫瘍専門医でなければなりません。  つまり、物理的な側面だけでなく、生物学的な側面も知らなければならないのです。  肺がんの陽子線治療については、まだ多くのことを学んでいるところです。  肺がんの表層部など、あまり動かない場所であれば、陽子線治療は非常に簡単です。  しかし、肺の真ん中や、心臓の領域まで照射しなければならない場合は、心臓に多くの放射線を当てないようにしなければなりません。  それが私たちの研究から学んだことですが、私たちは自分たちで多くのことを学ばなければなりませんでした。放射線肺炎ではなく、心臓毒性が問題なのです。  ですから、肺がんや胸腺腫瘍に関連した症例では、心臓に多くの放射線を当てないようにしなければなりません。  心臓の容積は非常に重要です。

 

 

アルジュン・サガール医学博士 :どうお考えですか?あなたは長年陽子線事業に携わっていらっしゃいました。もちろん、試験も行ってきたはずです。少しお時間をいただけるか分かりませんが、炭素イオンについてどうお考えかお聞かせいただけたら嬉しいです。炭素イオンは、より優れた可能性を秘めたものとして提案されていますが、どちらについても何かお考えはありますか?

 

 

小牧律子医学博士 FASTRO:わかりました。  日本に帰るたびに、私はまだ日本語を話せるし、日本にはたくさんの友人がいますから、「どうして炭素イオンじゃないの?  」彼らは、MDアンダーソンで重粒子線治療機器を設置するよう、本当に私に押し付けようとしました。  私が直面している問題は、炭素イオンも中性子と同じで、LETが高く、低酸素領域でも問題なく克服できることです。  しかし、正常組織への影響については定かではありません。  炭素イオンの場合ははっきりしません。  炭素イオンの晩発性効果については、分離する傾向があります。

 

私がMDアンダーソンのフェローだった頃、NCIの助成金で中性子治療を受けた患者を振り返ってみました。  腫瘍そのものは、例えば上面腫瘍や耳下腺腫瘍のように、消えてしまいます。  しかしその後、特に婦人科や前立腺癌では、木で作ったような硬い皮膚のような皮下線維症が驚くほど進行し、それが中性子治療と関係していたため、混合ビームを使うようになりました。  しかし、それでも晩期障害があるため、中性子線治療を中止せざるを得ませんでした。

 

私は今でも中性子線による晩期障害の記憶を覚えています。だからこそ、中性子線と同様に高LETの炭素イオン線は、軟部肉腫や骨肉腫、あるいは非常に小さな末梢肺がんなど、特定の患者さんには非常に慎重に照射する必要があるのです。炭素イオン線治療を乳がんや縦隔リンパ節転移を伴う肺がん(ステージIII)に使用している患者さんには、分子標的治療が不可能な場合は同時に化学放射線療法が必要となるため、特に注意が必要です。私はあらゆるがん治療に伴う晩期障害を非常に懸念しています。悪性腫瘍の種類や患者さんの年齢にもよりますが、治療方針は慎重に検討する必要があります。

 

 

クリストファー・ローズ 医学博士 FASTRO :ハマースミスで子供たちを見たことを覚えていますが、そこでも同じようなことがありました。  炭素のRBEを理解するために、多くの仕事をしなければならないということでしょう。

 

 

小牧律子医学博士 FASTRO:その通りです。

 

 

クリストファー・ローズ 医学博士 FASTRO :ブラッグピークの軌道に沿ってRBEが変化するとしたら、モデル化するのは本当に非常に困難になるでしょう。あと2時間話しても構いませんし、もしかしたらそうすべきかもしれません。ところで、世界的な影響力を持ちたいと考えている放射線腫瘍学のアカデミック・トレーニーにアドバイスをお願いします。

 

 

小牧律子医学博士 FASTRO:そうですね。  私たちには優秀なレジデントがいますが、彼らは患者さんの話を聞くことを学ばなければなりません。  患者さんから学ばなければなりません。  患者さんを尊重し、同僚も尊重しなければなりません。  アジアやヨーロッパでは経験豊富な医師を尊敬します。  しかし、アメリカではそれが失われつつあります。  コンピューター・システムに頼っているだけです。  コンピューターからすべてを学ぼうとしているようで、尊敬の念がないのです。  私は患者さんから学んでほしいと思います。  また、レジデントは訓練されるものではなく、馬や兵士でもありません。  考え方を教える必要があります。何事も同じようにはいきませんから、考える方法を教えなければならないのです。  それはとても重要なことだと思います。

 

私が大人になったときのロールモデルは、マリー・キュリーでした。「人生は誰にとっても簡単なものではないが、忍耐と、何よりも自分自身に対する自信を持たなければならない」私たちは何かのために授かった才能があり、その才能は必ず達成されると信じる事が大切なのです。若いレジデントの先生たちは自分自身に自信を持って欲しいと思っています。人と人の間では、多くの争い事があります。それは本当に哀れなことです。心が折れそうになる時もあります。でも、そんな時でも自信を持たなければならない。  それからもうひとつ、これもマリー・キュリーの言葉ですが、「人生において恐れるべきものは何もない。  それは理解することだけである」 そのことをよく考え、アイデアには興味を持つが 人種には興味を持たない。  そんな彼らに、是非それを学んでほしい。

 

 

クリストファー・ローズ 医学博士 FASTRO :あなたは私にとって素晴らしい先生であるだけでなく、もちろん素晴らしい旅行代理店でもありました。  私が世界のどこかへ行くときはいつも、まずあなたがそこにいて、何をすべきかを熟知している。  趣味や仕事以外で興味のあることについて教えていただけますか?

 

 

小牧律子医学博士 FASTRO:趣味は庭です。  庭や花や自然に夢中で、だから旅行が大好きなんです。  特に日本庭園が好きです。  そこに座って瞑想したり、緑茶を飲んだり。  庭と花が大好きなんです。花がないと生きていけない。  だから結婚してからも、夫に言わせると、ほとんど毎日、花を買ってきて生け花をしていました。花がないと、私の人生は死んでしまう。  ワインを飲まなければならない人もいる。  でも、私にとっては花がなければ、太陽は消えてしまう。  だから私は花を手に入れなければならない。  私の情熱はフラワーアレンジメントと旅行なんです。

 

旅行が大好きです。そしてもちろん、旅は自然だけでなく、親切で自分の国に情熱を持っている人々、それから食べ物、そういったものすべてに触れることができる。  どこへ行っても、自分の魂に響くものを発見するんです。イタリア、スペイン、フランス、そしてもちろん日本。  いつか日本に長く住んでみたい。  それが私の情熱なんです。

 

 

クリストファー・ローズ 医学博士 FASTRO :今日のディスカッションの中で、私たちが忘れてしまったことで、何か記念に残しておきたいことはありますか?

 

 

小牧律子医学博士 FASTRO:先ほど申し上げたように、私たちは腫瘍学者でなければなりません。  つまり、物理学の知識だけでなく、がん生物学者でなければならないということです。  その上で、ぜひ知っておいてほしいのは、物事は巡り巡ってまた巡ってくるということです。  それが人間の本質なんです。人間というのは、何か正しいことをしたり、親切にしたりすれば、やがてそれが戻ってくるものなんです。それが、私が研修医や若い先生たちに思い出させたいことです。私たちは毎日とても忙しくなっていて、お互いを思いやる十分な時間がないのが実情ですが、それはとても大切なことだと思います。

 

 

クリストファー・ローズ 医学博士 FASTRO :アルジュン、律子に何か質問はありますか?

 

 

小牧律子医学博士 FASTRO:もうひとつ

 

 

アルジュン・サガール医学博士:あなたのキャリアは私たち全員にインスピレーションを与えてくれました。

 

 

小牧律子医学博士 FASTRO:インタビューしてくださってありがとうございます。  光栄です。

 

 

クリストファー・ローズ 医学博士 FASTRO :律子さん、もうひとつおっしゃるところでしたね。  もうひとつ追加しますか?

 

 

小牧律子医学博士 FASTRO:ひとつだけ、私たちは本当に......これは私だけの問題ではありません。  いつもジムは同じことを言っています。  失敗から学べと。  私は患者さんを治すことに情熱を注いでいます。  患者さんを治すために何でもやりますが、同時にいつも何かを学んでいます。失敗したら、そこから学ばなければならない。  それはとても重要なことだと思う。  だから、私は個人的な失敗が好きなんです。どのように失敗したのか、何に失敗したのか、そこから学ぶんです。

 

 

クリストファー・ローズ 医学博士 FASTRO :素晴らしい経験でした。

 

 

ソース 2018年のインタビュー

https://www.astro.org/About-ASTRO/History/History-Interviews/Ritsuko-Komaki

 

 

 

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